9月27日にまちあるきイベントを開催しました。
こんにちは。中之作プロジェクトスタッフの久保田です。
去る9月27日(日)、暮らしの伝承郷館長の夏井芳徳さんを講師にお迎えし、見て、聞いて、歩いて、戊辰戦争の頃の中之作の歴史をたどるまちあるきイベントを開催しました。
当日は小雨が降るあいにくのお天気にも関わらず、約20名もの方にお集まりいただきました。
午前10時に集合した後、まずは清航館にて夏井先生の講義から。
夏井先生はまず、大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重の夫新島襄の手記をもとに、江戸末期の中之作の様子を解説されました。それによると、中之作港は岩礁が多く、不案内なものにとって寄港するには危険が伴う場所だったといいます。一方で石炭の輸出港となっていたこともあり、船の出入りが絶えず、街が活気に満ち溢れていた様子もこの手記から読み取れるということでした。
その後、時は進み、戊辰戦争の時代となります。今度は新政府軍の薩摩藩の史料と旧幕府軍の仙台藩の史料を見比べながら、当時の状況を読み解きました。薩摩藩の史料では逃げ遅れた旧幕府軍の兵士が海に飛び込んで逃げたと書いてあるものの、一方で旧幕府軍の史料にはそれら兵士は新政府軍によって皆殺しとなってしまったと書いてあります。この記述の違いについて、夏井先生は、旧幕府軍の史料が史実として正しいのだが、その史実、すなわち旧幕府軍の兵士を皆殺しにした新政府軍のやり方があまりにも残虐であったため、新政府軍はそれを隠すために史実と異なる記述をした、と説明されました。政権の安定性を保つことに腐心していた当時の新政府の心境がうかがえます。
夏井先生の講義はここまで。いよいよ実際に外に出て当時の面影を探しに行きます。
まずは清航館のすぐそばにある資材置き場へ。ここには新島襄が中之作寄港の際宿にしたという「仙臺屋」というお屋敷があったんだそう。もしかすると先ほどの手記もここで書かれたのかもしれません。
次は港へと向かいます。
先ほどの新島襄の手記にて中之作の港は岩礁が多いとありましたが、その岩礁は陸地の山がせり出しているところの延長上にあり、陸地の奥の方まで平坦になっている場所は海の中もなだらかになっているという説明がありました。中之作の港は自然が生み出した地形を人間が上手に利用してきた場所であることがうかがえます。
さて、次は山側の住宅地の方へと向かいます。
中山医院の脇を通る道、この道が古くから他地域との行き来に使用されていた幹線だったと言われています。今では自動車での交通が主流となり、道幅がせまいこちらの道路は近隣の住民以外の使用はほとんどありませんが、実際に歩いてみると当時の面影がところどころに浮かび上がるような気がしました。
その後、参加者の半数は戊辰戦争の中之作の戦いで戦死した仙台藩兵が眠る「ひめ塚」へと向かいました。このひめ塚は、中之作の住民が戦死した仙台藩兵を新政府軍に見つけられないよう山奥へと運び、埋葬したという場所。戊辰戦争後、明治新政府が確立されたのちも、住民以外にこのひめ塚の存在は知らされることなく、地区の住民によってひっそりと守られてきました。「賊軍」とされてしまった兵士の無念を、中之作の住民は忘れることなく、今の代へと繋いできたのです。
さて、今回のまちあるきイベントはここで終幕。逆説的ではありますが、こうやって街を歩きながら歴史を振り返ることで、今後この地域がたどるべき道が見えてくるような気がしました。
終わったばかりですが、さらに中之作の歴史を深堀りしてみたくイベントでした。参加者の皆さん、夏井先生、ありがとうございました!また次回お会いしましょう!
<中之作プロジェクトスタッフ・久保田>